昭和51年06月12日 朝の御理解
御理解 第65節
「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」
天地の道理にもとずいて、御理解を下さってある訳です。昨日から新しい祈願詞がみんな一緒に奉唱させて頂いて、祈願詞の始めは生神金光大神天地金乃神様の連章である。「天地金乃神様の あまねく満つるみ恵みと計り知られぬみ力に、天地のあいだのものは皆 生かされて生きてあり その道理を知らずして 迷い苦しむ人々の 難儀を助け給わんと」とこうありますよね。私はここまでのところが本当に祓い詞分からなければ、この六十五節は本当に入って来ないと思うんです。
ただあのう日柄方位は見らんでいいですよと。まぁ例えば家を建てるならば使い勝手のいいのがいいですよと、というふうにたとえ金光様ではああ言われるからだけでは、やはり今までのまぁ習慣というか、今までやっぱり天地のはたらきと言う様な事も知らず、お恵みが満ちあふれておる天地であるということも知らず、ただ昔から言うてきた、いうならばそういう日柄方位と言った様な、大きな迷信にとらわれてしまって、窮屈な生活をしてきたわけであります。
私は今日は「祈願詞というこの言葉という字に司どる」と書いてある、今日この事をこれを頂いたんです。皆さん持っておられるね。祈願詞の詞という字ですよ。言偏に司どると書いてありましょう。だから言葉の持つ力というか、言葉の持つそのう不思議なはたらきというものは、それが権威者であればあるほどその力は大きいのです。例えばお医者さんならお医者さんの身体の全体の事を知っておられ、この病気にはこう、こんな病気はこうというふうに一通りの事を知っておられる。
言うならば、人体の上の病気なんかの権威者であります、お医者さんは。だからお医者さんにちょっとこう首をひねられただけで顔が真っ青になったり、お医者さんがにこにことして大丈夫心配はいらんよ、とこう言われたらもうそれで安心する。これはいうならば、権威者がいうとこの言葉というのは、そんなに私共の心を自由自在にするものだという事です。問題は真から、心からのものでなからにゃいかんのです。
久留米の通町から参ってみえておりました、何とか三橋先生とこのすぐ近所から参ってきよりました。胸の病気でまぁ参って来なさった訳ですけれども、どうも具合が悪いから病院にその診察に行かれたら、胸だと言われた。随分進んでおる事が分かった。もう行きがけは元気じゃったのが帰りはもう血の気がなくなって、もう歩く事も出来ずに自動車で送ってこられたという。はぁもうこれで自分はしまえたとこう思うのでしょうね。言葉という言葉の持つ力、しかもそれがその絶対のものであれば尚更の事です。
そこで私共がいうなら、もう完璧の御神徳を受けられた、教祖金光大神様のお言葉というものはです、もう本当に大変ないわゆる言葉の司どる、言葉によって私共が自由自在に助かっていけるほどしの御内容を持っておられる、そういう意味で人が幸福になっていくことのための道というものを極められた方のお言葉なのです、御教えというのは。人間が真実幸福になっていくことのためのことを極められたお方。
こういう生き方にならなければ、幸せになれないということを身をもって体験され、天地金乃神様のお知らせを頂かれて、そして御教えが出来ておる。御教えになっておる訳です。だからその教祖の神様という方を通して、私共がいうなら、今日の御理解をもってするならばです、はぁなるほど道理だと、最もだということが分からなければならんのです、真っ先に。
それを祈願詞の最初の所にです、天地金乃神様のあまねく満ちる御恵みと計り知れない御力に天地の間のもの皆は、生かされて生きてありそのことわけを知らずして迷い苦しむ人々の、難儀を助け給わんとと言う所を、ひとつ繰り返し読んで見て下さい。その道理を知らずして苦しんでおるのだとと言う事です。天地の御恩恵と言う事も知らずして、天地に対する所の神恩報謝の心所か、言うならば天地に対して不平不足を言うたりケチを付けたりする様な考えか方では、人間が幸せになれないと言う事が分かるのです。
いうなら日柄を言うたり方角を言うたりする事はもう、天地のはたらきにケチをつけるようなもんです。自分のものでもないものを、自分のもののような思い違いをしておるところに、人間の難儀がありめぐりのもとがあると、御理解三節に説いておられます。それには先ず天地の中に生かされておるということを、まずは知る。天地の中には天地金乃神様のおめぐみが満ちあふれておるんだということなんです。それは図り知れぬものであり、天地の間に住むものは生きとし生きるもの、人間だけじゃありません。
が蒙むっておるところのおかげということの天地のことわけ、いわゆる天地の道理を知らずしてということになる。だからそこんところがなら勉強されてというか、そこんところが分からせて頂いて、このご理解を頂くと、金光教の教えは素晴らしいなぁということになるのです。そして今まで心にかかっておった、長年信心しておるけれども、やっぱり日柄も言うたり方角も言うたり、家を建てるならやっぱり、使い勝手が悪いことは分かっておるのに、家相を言うたりして、窮屈な生き方をする事になる。
いやう言う様な生き方をするということ、はそのまゝだから天地に対するところのご無礼だということが分かるのですから、自分の心にあったかかっておった雲がすっきりと、はっきりして来る訳なんです。だから今私は祈願詞ということは、私は皆さんこれにね、ひとつ御祈念成就ということをひとつの書いときなさいよ。今からこういう御祈念をさせてもらう、これは本当に成就しなければならない。ただ唱え言葉でただ唱えておればよいということじゃないのです。
それを確信しそれを本気で実行し、本気で守らせて頂こうという腹がでけて、この祈願詞である。いうなら私はまぁひとつこの際最後のところに、やはり生神金光大神様天地金乃神様の連唱があるがです、その後にです、生神金光大神様天地金乃神様、御祈念成就、御祈念成就、御祈念成就ということが十回位唱えられていいと思うですね。御祈念が成就しなければならんのです。ただ唱え言葉じゃないのです。御祈念成就。皆さんが日々大祓信行をなさっておられる。
いやこれを一生懸命あげよりゃ、もうなら大祓いはいらんかというと、いらんのじゃない。大祓いというのは訳は分からんでいいのです。ただ自分の心が有り難うなってくる、大祓いを一生懸命唱えさせてもろうて、自分の心はいわゆる六根清浄である。祓い詞と言うのはそうです、自分の心が清まる事のためにあげるのです。意味が分からんでもええ、一生懸命あげよると確かにです、心がいうならばお水をかぶった後のようにすっきりするです。それが心がそういう心の状態になる。
それを一生懸命心を奉るのですから、神様のいうならばこれは糧になると、皆さんに言っておる訳ですね。神様が栄養失調になるごたる神様、一向この頃神様のはたらきが生き生きとしてこん、そういう人達が宅の神様、教会の神様の前で無条件の、もうこれはもう無条件の大祓い信行でなからないかんです。無条件に、あの大祓いはあげなければいけんのです。条件があったらもうそれで、不純なものがそこにあるから、神様は食べなさらん飲みなさらん。
氏子の真心、氏子の不純のもののないその言葉をです、神様が飲みもしなさりゃ、食べても下さる。だから神様が生き生きとしてみえて、いうならみなさんのところの神様の前に、最近みなさんのお神様の前で、おいさみなんかが非常に激しくなったというのは、神様がもう生き生きとしてみえたからです。だからそれと私はこの祈願詞は私は違うと思うです。あれは六根清浄、心が清まる、その清まった心を神様にお供えするのです。御神飯をお供えするのと同じ事です。
だから神様が生き生きとしてみえるから、大祓い信行はいよいよ本気でやらなきゃいけないということになる訳でありますね。生かされて生きておるんだという道理が分かる、素晴らしいことです。それを知らんところに迷い苦しむ人々ということになってくる。世の中の難儀のもとというのは、天地の道理を知らずに、ただ自分勝手の生き方をしてです、幸せのいうならば焦点を間違えたところの、生き方をしておるところにです、人間の難儀というものがあるのです。
その難儀を助け給わんとと言う所、そこに生神金光大神様ご出現と言う事になるのです。明日はこの生神金光大神様ご出現というところから、またお話しを聞いて頂くだろうと思うのです。今日はここんところまでを、今日の六十五節から聞いて頂いた。例えばこういう例えば天地の道理が分かり、生かされて生きておる、いうならば難儀のもとというものはどこにあるかと言った様な事が、段々ご理解によって分かってくる。
天地の中にあまねく満ちるところの御恵み、いうなら満ちあふれておられるところの御神徳の中に、生かされて生きておっても、それを知らずそれを守らず、頂かずしてはです、御神徳の中に生かされておっても、その御神徳に触れるおかげは本当の意味においてのおかげは頂かれない。先ずはここんところの道理が分からせて頂いて、六十五節を頂くところからです、金光大神のいうならば内容であるところの御信心。
しかも人間が幸福になっていくことを、天地の道理にもとずいて極め抜かれた教祖様のお言葉がです、自分の心の中にすっきりと入って来てです、なるほど日のお照らしなさる日に、良い悪いはないと思えと言う様なです、今まで心にかかっておった言うならば、迷信が、それこそ雲が晴れたように自分の心からすっきりしてくるのです。そのすっきりした心でまた次ぎの願いがされる。祈願をするということになります。
だからこれはどうでもひとつただ祈願詞と、ただ唱え言葉ということにとどまらずに、それが御祈念が成就しなければなりません。それにはまず天地の道理を分からせてもらい、いうならば教祖様のお言葉をです。そうですね、教祖様のお言葉というてももう百年も経ちますとです、何とはなしに、昨日誰だったかな、そんな事を言ってましたね。そこで教祖様の言葉を真っ向からまともに受けて、そしてそれを実行しておかげを頂く。なるほど人間の幸せはもうここに極まったという。
言うならばお話が大坪総一郎の話なんです、ここでは。ですから私が実際に頂いて現しておる信心を、皆さんが御覧になるから、私の言う事をです、私をよく知った方ならば私が言う事を日々、あぁなるほど親先生が右というて頂いたから右、左と頂いたから左、心配はいらんと言われたから、心配が消える、と言う様なおかげにもなって来る訳です。いうならば私は教祖金光大神の御教えを行じて、それを実証しておる訳です。証しを立てておるのです。
だから皆も私の言う事を聞きさえすりゃ、おかげが頂かれるとこう言う訳です。私事実おかげを受けておるわけです。いわゆる教祖様という、人間幸せになっていくことのための実証を、天地の道理をふんまえて、はっきりと人間の幸せはここでなからなければ、ここをたどらなければ人間の幸せは幸福は、ありえないということを実証された方のお言葉ですから、教えの一つ一つがです、素晴らしいものとして自分の生活のうえに、生き生きとして現れてくる事になります。
例えばこの六十五節等はです、そういう権威のある方のお言葉として頂く時にです、今まで心に掛っておった迷いの雲といったものが、すっきりとして来る訳になります。今日は六十五節から、言葉がによって司られる人間の幸不孝がです、いうならその権威を持ったその言葉一つでです幸福になる。親先生がもしおられなかったら、今の私の家はどうなっておっただろうか。本当に幸と不幸の境目を辿らせて頂いておる時にです、幸せの方を取らせて頂いたと言う事が有り難い、と言う事になるのじゃないでしょうか。
言葉の持つ不思議な力、はたらき、それもその権威を持った人の言葉である時にです、それはもう本当に死活自在と、言った様なはたらきまでなす訳であります。ためにはまず天地の道理、天地のご恩恵を身をもって分からせてもらい、天地の道理をいよいよ分からせて頂いて、教祖様の次から次と教え下さるお言葉を頂かなければならない、そのお言葉によっていよいよ幸せの道を辿らせて頂かなければならんのです。
どうぞ。